磯自慢探訪

創業185年 焼津唯一の酒蔵、磯自慢酒蔵

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建て直す以前の蔵の風景

静岡県焼津市の磯自慢酒造は、天保元年(1830年)創業の老舗酒蔵。江戸時代に創業した多くの酒蔵がそうであるように、磯自慢酒造も焼津の大地主であり、おそらく庄屋も営んでいたのではないだろうか。当時はその土地の大地主が庄屋として年貢米の集積・輸送を代行し、武士の俸禄として米を納め市場に流通させていた。そうした過程で発生する余剰米で、商品価値の高い酒を造り始めた…というケースが一般的だった。つまり本業は大地主・庄屋としての農業経営に従事し、冬の農閑期には米で酒を造るというサイクルだったのだろう。

だが、こうした経営形態も戦後のGHQによる農地解放政策により終焉し、それまで副業であった酒造りに専業化していく。またこの時期、一村一蔵といっていいほど多かった小さな酒蔵が、当時の大蔵省の指導によって整理・統合されていった。戦後の混乱期を経て、日本は高度経済成長期に突入する。バブル破綻後の日本しか知らない若い世代には気の毒ではあるが、戦後の日本経済は右肩上がりの時代が長く続いた。その中で日本酒の消費量も景気と連動するように増え続け、大手メーカーでさえ「酒の生産が追いつかない」という状況だった。

そこで考え出されたのが“桶買い”というシステム。地方の酒造会社が造った酒を桶ごと買い入れてブレンドし、糖類など添加して味を調整した上で、自社ブランドの酒として出荷するとう仕組みだ。この仕組みは、地方の酒造会社にもメリットがあった。とにかく酒を造りさえすれば、大手メーカーが買い入れてくれる。当然、品質向上の研究も、宣伝といった営業努力も必要としない。一部の有名地酒の酒蔵を除き、地方の多くの酒蔵が桶買いに大きく依存する。そんな状況が長く続いたのだった。


継承される酒造りへの想いと磯自慢品質

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多田信男杜氏

戦後の経済成長とともに消費量を伸ばし続けた日本酒であったが、昭和末のバブル期の始まりともに、徐々にその減少傾向が顕著化する。酒類への輸入関税の引き下げにより、酒類の多様化が一気に始まり、特に20代、30代を中心にバーボンやワイン、カクテルなどが“お洒落な酒”として人気を集めていく。また、都市部を中心にフランス料理、イタリア料理などのレストランが増えるといった、食の変化とも無関係ではなかっただろう。バブル景気に乗った高級品志向・本物志向が高まる中、日本酒は完全に波に乗り遅れ、「時代遅れの酒」となっていった。
こうした状況にいち早く危機感を感じた磯自慢酒造では、『これからの時代、自分たちの酒を高品質化しなければとうてい生き残れない…』と考えた。それは、寺岡社長が大学卒業後、酒類の商社で修行していた経験が大きかったに違いない。

『昭和50年頃、親父(当時社長・現会長)と話し合い、いい酒、高品質な酒を造ろうと大きく舵を切りました。この時の二人の判断と決断がなければ、今頃、磯自慢という酒蔵はなくなっていたかもしれませんね』。と笑いながら教えてくれた。この時の磯自慢酒造の杜氏(酒造りの現場責任者)は、志太杜氏である横山福司氏。この横山杜氏が、『大変苦労して、現在の磯自慢品質の基礎を作ってくれました』。と寺岡社長。横山杜氏は、75歳で引退される年まで、磯自慢酒造で勤め上げてくれたそうです。

ちょうどこの頃、時を同じくして「本物のいい酒を造ろう」、そう考える少数の酒蔵が地方から出始める。そう、日本酒の高品質化は、大手酒造メーカーからではなく、地方の酒蔵から始まったのです。


造り手と飲み手、信頼感が紡ぐ幸福な関係

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磯自慢酒造の努力や工夫は、『酒販店やファンの信頼を決して裏切らない』という一点に集約されている。『酒造りの条件は毎年変わります。米の出来具合は毎年異なりますし、気温や湿度も年毎、日毎に変化します。さらに酒は麹や酵母といった生き物によって造られますので、まったく同じ条件ということはあり得ません。変化する条件の中で、いかに「磯自慢」として信頼いただいている品質を再現するか常に考えています。そのために必要な技術の導入や設備投資は惜しみません。そして、どんなに疲れていたとしても、「もうひと手間を掛けてあげる」という気持ちが、酒造りには大切だと考えています』。

ご存知の方も多いと思うが、磯自慢酒造の醸造蔵の内部は、ステンレス張りの冷蔵庫のような仕組みになっており、常に清潔な環境が保たれている。焼津という土地柄、冷蔵・冷凍倉庫が立ち並んでいるが、その技術を応用したものだ。こうした酒造設備は、“磯自慢品質”を安定的に再現するために社長自ら考案・設計したものであり、また静岡県内ではここにしか導入されていない酒造機器も数多くある。

さらに寺岡社長がほれ込んでいるのが、兵庫県の東条町(現・加東市)産の酒米、山田錦だ。山田錦は「酒米の王」といわれる品種であり、東条町は数少ない特A地区と呼ばれる最高の産地の一つ。当然その米は希少であり、仕入れも通常より高価となる。寺岡社長はこの東条町産の山田錦を使いたいと考え、現地の米農家を一軒一軒回ったそうだが、『いやぁ、最初は門前払いでした(笑)』だったそうだ。しかし、諦めずに毎年東条町に出掛けては、米農家を訪ねて回った。そして、ようやく一軒の米農家から出荷の約束を取り付けるまでに6年を要したという。

現在、この特A地区東条山田錦地区の農家の方々との自立、共生を進めるにあたり、志を同じくする全国11社の蔵元仲間で、「フロンティア東条21」を組織して田園を守り、最高品質の山田錦を収穫する努力、そして年に二回ほど「美味しいお料理と日本酒を楽しむ会」も開催しております。


磯自慢を通して見る日本酒の可能性と未来

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2010年から東条町秋津にある3カ所の田んぼ、「西戸(さいと)」「常田(つねだ)」「古家(ふるけ)」という区画を厳密に指定し、そこで収穫された酒米のみによる3種類の酒の仕込みを開始している。これは日本酒の歴史において画期的な試みだ。

こうした生産地指定は、ワインの世界では厳密に行われている。最も有名なのはDRC社のワイン、「ロマネ・コンティ」だろう。ワインに少し詳しい人がロマネ・コンティと聞けば、フランスのブルゴーニュ地方、ヴォーヌ・ロマネ村にある、DRCが単独所有する約1.8ヘクタールのグランクリュ(特級ブドウ畑)の名前。そして、そのグランクリュで収穫した、世界最高のビノ・ノワール種で醸造された赤ワインの名前とすぐ頭に浮かぶはず。

これまで日本酒の世界には、こうしたフランスのAOC(原産地統制呼称)のような概念がなかった。今回の寺岡社長の試みは、AOCの概念を磯自慢に取り入れ、より厳密に製品の品質保証を行うことを可能とする。また同時に、東条町の3カ所の田んぼ、「西戸」「常田」「古家」の生産者たちを守ることにも繋がる。

この田んぼの区画名を冠した酒は、新たなブルーボトル(純米大吟醸)として、「古家」が7月、「常田」が9月、そして「西戸」が11月から順次発売となる。もちろん数量限定なので、興味のある方は、早めに磯自慢酒造に問い合わせることをお薦めする。私も田んぼの違いによる酒質の差が、どのようなものになるのか大いに興味がある。安全で高品質な食への興味が高まる中、いよいよ日本酒もテロワールを語る時代になるのかもしれない。